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ジェロビタール化粧品はどのようにして生まれたのか 。 また 、 その生みの親 「 アナ・アスラン 」 とはどの様な人物なのか 。
この連載企画では 、 ルーマニア国立老人医学研究所の協力を得て 、 アナ・アスラン博士の人となりをお話ししながら、
ジェロビタール化粧品の奥深き魅力をご紹介していきます 。
マリー・ハミルトン夫人は、80歳(1983年当時)となった今も、一人で車を運転してショッピングに出かけたり、旅行を楽しんだりと、元気な老後を送っている。
夫人は数年前夫に先立たれ、二人の娘が結婚してからは、ヒバリーヒルズの閑静な住宅街でメイドと二人で暮らしていた。彼女は夫に先立たれた頃からボヤッとしていることが多くなり、また体全体がだるく、自由がきかなくなりだした。大学病院で精密検査を受けたところ、身体の随所に動脈硬化の徴候が著しくみられた。大学病院は動脈硬化の治療を施し、通いの看護婦もつけてくれたが病状はよくならない。次第に歩くのがつらくなり、自宅にこもりきりでベッドにいる時間が長くなった。また、物忘れもひどくなり、ちょっとしたことにも怒りっぽくなった。
そんな時、近くで老人クラブのパーティが開かれたので、気分転換も兼ねて参加してみた。そのパーティで彼女は、目立って精力的に踊っている老人に気づいた。「あら、幼なじみのクロフォードさんだわ。でも本当にあの人かしら?」 疑問を持ったのも無理はない。クロフォード氏はハミルトン夫人と同い歳。しかも心悸症にかかっていて、外出もできないほど弱っているという噂を耳にしていた。しかし踊り終わった彼がハミルトン夫人に気づき、近づいてくるとやはり本人であった。
久しぶりに話をしてみると、クロフォード氏は噂の通り、心悸症でほとんど寝たきり老人だったが、医療雑誌で知ったジェロビタール治療を受けたところ、1年後には寝たきりの生活からおさらばし、今では毎日が爽快だと言い、彼女にも是非治療を受けるようにすすめた。
こうして数年後、ハミルトン夫人はジェロビタール治療を受けるべく、ルーマニアへと旅立った。ブカレストのフローラホテルクリニックで精密検査を受けた結果、かなり重度の動脈硬化とのことで、早速治療が開始された。ジェロビタールH3の投与と併せて、薬草風呂でのマッサージや、微電流バスと高圧シャワーを組み合わせた理学療法で、血管の硬化をやわらげ、血液循環の改善につとめた。一ヶ月治療を続けるうちに、次第に体の自由がきくようになり、目まいや息苦しさもなくなっていった。物忘れもしなくなり、体中に活力が湧いてくるのが感じられた。
中間検査では、コレステロール値が下がり、動脈や末梢血管への血行値の上昇が認められた。一ヶ月後、帰国する頃には元気に歩けるようになり、飛行機のタラップを登るのも苦にならなかったという。帰国後も担当医の処方により、ジェロビタールH3の注射と錠剤の服用を続けたため、心身ともに充実した毎日を送れるようになった。当然、看護婦の付添いもいらなくなり、一人で車を運転してあちこちへ出かけらるようにもなり、若さの維持とリフレッシュを兼ね、数度にわたりルーマニアへ通う程、精力的な毎日を送った。
ジェロビタール治療をすすめてくれた幼馴染のクロフォード氏とは、ボーイフレンドとして付添い、サンフランシスコに一緒に旅行するなどして、共に"第二の青春"を楽しんでいる。